
カフェーパウリスタが、一般庶民にコーヒーを広め喫茶店文化の先駆的な役割りを果たした事実とともに、創立者である水野龍氏の苦難の日々も忘れるわけにはいけない。
1906年、ブラジルに渡った水野氏は、サンパウロ州のコーヒー耕地が日本農民の移住に好適であることを知り、当地に赴いて実情を確かめ、大規模な移民計画を立てた。
日本人海外移民の歴史の古くは、17世紀初頭にジャワのコーヒー園に雄飛した500人の記録まで遡るが、本格的な移民の渡航は1885年(明治18年)のハワイ移民である。いずれも多くはコーヒー栽培に従事した。しかし、1908年(明治40年)の「日米紳士協約」によって、ハワイへの移民が厳しく制約され新開地を模索。時宜を得て水野氏が設立した皇国殖民合資会社から、ブラジル移民第一陣がサンパウロ州に送り出された。そして以後、10回で統計1万5千人近くもの日本人がブラジルに渡っていったのである。

しかし、その統率者でもある水野氏の苦労が始まるのは送り出してからであった。地球の反対側といえるほど遠く離れた異国で、移民たちを待ち受けていたのは、コーヒーの不作、炎天下の重労働と風土病であった。人々は挫折し、脱落者も出る有様だった。
水野氏は根気強く説得を繰り返した。「諸君は日本を代表し、この地の開拓移民としてはるばる渡ってきたのである。諸君の手から収穫される珈琲はすなわち日本の国産品であると言って過言ではない。第二第三の後続移民のためにも万難を克服して努力されたい」
投稿者 有機コーヒー通販・無農薬コーヒー通販の『森のコーヒー』公式サイト :2007年12月19日